駿府九十六ヶ町 400年後の妄想まちあるき vol.6

駿府九十六ヶ町を愛する石川たか子さんと共に、町名の由来を学んだり400年前の情景を妄想しながら、その町のカフェでひと休み。そんなゆるめのお散歩「妄想まちあるき」を、シズオカオーケストラの井上がレポートします。

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ナビゲーターは石川たか子さん。主旨に賛同して集まってくださった6名のメンバーと共に妄想まちあるきが始まります。

この日歩く一本道は、その地形から通称「土手通り」と呼ばれる、旧東海道だった「新通り」と今川時代のメイン通りだった「本通り」に並行して通っている重要な道です。まずはじめに集合場所の奥津彦神社の前で明治時代の地図と見比べながら位置とコースを確認し、出発!(ちなみに目の前を通る大通りである御幸町は昭和に入ってからできた道なのだそうです。)

最初の町は車町。お団子屋さんや鰻屋さん、喫茶店などの老舗が並んでいます。グルメ通りと呼ばれることもあったとか!この辺りは四つ足御門に近いということもあり、今川時代には特に栄えたエリアだったに違いありません。

車町(現存)

家康公に呼ばれた牛飼い(牛車を使う)が住んでいたことに由来。

ここで石川さんのお祖母様と仲良しだったという「桶屋のおみっちゃん」のお宅前を通りがかり、お祖母様と石川さん、桶屋おみっちゃんとその御孫さんの四人で一緒に、七間町へ天ぷらを食べに行った思い出をお聞きしました。ハイカラですね!

さっそく信用金庫さんの一角に、綺麗に整えられた研屋町の町名碑を発見!これまで見た中でも一番愛情が注がれているであろう、ピカピカの町名碑でした。なんだか嬉しい・・・!なぜ研ぎ師が集まったのかというと、この辺りは砂礫層のため地盤が良く、清く澄んだ水が湧き出たからだそう。なんと今でも井戸がありました!信用金庫の駐車場の一角に整えられており、近隣の方が容器を持って汲みに来ていました。

その碑を前にさっそく、研屋町の暮らしをイメージしたポーズを考えるメンバー一同。

メンバー「やっぱ刃物を研いでる感じだよね」
石川さん「誰かタライの役が必要ね」
一同大爆笑

研屋町(現存)

研師達が住んだまち。274名住んでいたとの記録。

研ぐポーズ!withタライ(中央)

そのまま通りを進むと、少し奥まった所に顕光院というお寺がありました。T字路のような変わった地形で、お寺の前はまるで参道のように広く開けています。昔は今我々が立っている土手通りの所まで境内があったのでは?いや、この開けているのは参道で、400年前は両側にお供え物を買うお店が並んでいたのかも?・・・と、今日も妄想が絶好調!

顕光院のすぐ近くには江戸時代から続く増田屋という和菓子屋さんがあり、そこの柚子最中が石川さんのお気に入り。静岡では美味しいと有名な銘菓です。「私の九十六ヶ町の原点のような感じ。三番町で生まれ育ったおばあちゃんが良く買ってきてくれたの。」と、なんと特別に石川さんが一同にプレゼントしてくださいました。一同大喜び!

少し通りから南に入ると、そこは屋形町。ここは武家の町なので駿府九十六ヶ町には入りませんが、梅屋町の同心だった石川さんのご先祖一族の中には、ここに住んでいた方もいらっしゃったようです。この北側は一番町~八番町まである番町エリアですが、数の小さい方がよりお城に近く地位の高い武士が住んでいたとされ、屋形町の辺りとなると中級の武士。きっと妙な緊張感もなく、町人とうまく調和していたんだろうなと妄想。

屋形町の中央にある静岡神明宮の柱には、寄付者の名前がずらり。住所を見ると周辺の町に暮らしていた方々のようです。今でもここでお祭りが開催されるそうですが、多くの方に愛されている神社なのですね。

屋形町(武家の町なので、九十六ヶ町には入らない)

今川時代に公家たちが住まいがあった、という説がある。

番町(武家の町なので、九十六ヶ町には入らない)

一番町~八番町まで、武家屋敷が並んでいたまち。

ところで「せいせいする」という意味の「ごせっぽい」という静岡の方言は、今川時代この辺りに御所風の整然とした屋敷が建っていて、それを見た町の人々が「御所っぽい」と言ったことから「ごしょっぽい→ごせっぽい」となったのでは?と、石川さんの妄想。

さて、南北に通る昭和通りを超えて、いよいよお待ちかねのランチタイム!!その名も「”土手通り食堂”ゆうき」。400年以上前から存在する通りの名前がついた食堂。ステキです。しかも、とっても丁寧で美味しい!

メニューに“ランチビール”の文字を見つけて、揺れる参加者の心。

お腹いっぱい食べた後は(お酒は飲んでいませんよ)、鳥人幸吉氏(※)のお墓を探して周辺をウロウロ・・・。普段なかなか歩く機会のない大鋸町・大工町の辺り(400年前は大鋸町・西寺町・上大工町)を歩き、ようやくお目当ての「福泉寺」を発見。ご住職様にご案内いただき、無事お参りすることができました。

※鳥人幸吉(浮田幸吉)・・・”鳥になりたかった人”と言われた日本初の飛行機考案者であり、歯科医として木型の入れ歯を開発した偉人。同じ駿府九十六ヶ町である江川町に住んでいたとされる。

この辺りはもともと西寺町ということもあり、お寺もたくさんあります。お墓を後にして、さらに大鋸町をぶらぶらしていると「玄忠寺」の前に本日二つ目の町名碑を発見。いぶし銀な雰囲気をまとっています!大鋸町・上大工町・研屋町・・・なんとも関連性のありそうな町が並んでいますね。ここで職人が使った鋸(ノコギリ)って研屋町で研いでたんじゃないかと、やはり妄想。

上大工町

大工の住んだまち。234人住んでいたとの記録。

大鋸町(現存)・西寺町

木挽き職人が住んだまち。

押して引いて木挽き職人風ポーズ!

ここで参加者一同、気づきました。道が坂になっている・・・!この大鋸町に400年代々住んでいる方のお話によると、昔はその高低差(土手)を利用して高方にある材木町から運んだ材木を転がし、低方にある大鋸町で製材をするという効率的なしくみがあったそうです。さすが駿府、画期的!今でも土手通りに立って南を見ると、坂になっている様子がよくわかります。

さらに西に進み、大通りが見えてくると、そこは通車町。九十六ヶ町ではないのですが、江戸期から通称としてこう呼ばれていたそうです。町の中心には「通車公園」という小さな公園がありました。樹木が大きく育った空間に近所の方が集まっていて、とても良い雰囲気!

通車町(九十六ヶ町ではない)

本通の近くにある車町、という意味。

公園前の浄国寺に、石川さんのご先祖様のお墓があります。梅屋町の同心をしていた、あのご一族。まさに原点。この妄想まちあるきができるのも、そういった積み重ねられてきた歴史とご縁が石川さんの駿府を愛する気持ちを育ててくださったからこそ。本当にありがとうございます。全員で、手を合わせました。今回の妄想まちあるきはこの浄国寺にて終了です。

参加メンバーの皆さんに感想をお聞きしました!

「初めてランチを挟んでのまちあるき。美味しかった!普段あまり歩かない土手通りを歩けて、楽しかったです。」

「今日は僕の職場の近くを歩いたんですが、ここまでちゃんと歩いたのは初めてだったのですごく勉強になりました。」

「やっぱり歩いたことがない場所が多かったので楽しかった。町の作りが機能的!考えて配置されているのかな、と感じる。どういう思いでそういった配置になったのかを考えてみたくなった。」

「親戚の家も近くてよく来てるはずなんだけど、”土手通り”というものをこんなに意識して歩いたのは初めてでした。土手通りから大鋸町の方を向いた時の高低差が、面白かった!」

「そもそも土手通りという名前を知らなかった。古い町の名前が残っているなということは感じていたけれど、いつもは自転車でさっと通り過ぎてしまう所。今回歩いてみて、勉強になりました。」


講師:石川たか子さん

生まれも育ちも駿府・静岡。株式会社丸伸代表取締役。静岡の魅力的な文化を再確認する「シズオカ文化クラブ」の代表幹事。静岡市文化振興財団評議員。静岡県立美術館協議会委員。静岡の歴史文化を継承する地域活動を多数実施している。趣味は相撲グッズの収集、相撲甚句、地域活動、国内温泉旅行など。

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