駿府九十六ヶ町 400年後の妄想まちあるき vol.3

駿府九十六ヶ町を愛する石川たか子さんと共に、町名の由来を学んだり400年前の情景を妄想しながら、その町のカフェでひと休み。そんなゆるめのお散歩「妄想まちあるき」を、シズオカオーケストラの井上がレポートします。

今回のまちあるきルートはこちらをクリック

ナビゲーターは石川たか子さん。主旨に賛同して集まってくださった5名のメンバーと共に妄想まちあるきが始まります。今回は、七間町の映画館があった場所「ミライエリアン」からスタート。城下町の東西を貫くように通っている東海道を歩くコースです。

まずは、駿府にしかない独特のまちづくりの形である「駿府型町割り」についておさらい。駿府九十六ヶ町は、通りを挟んで向かい合わせが同じ町です。そのため、いわゆる”1ブロック”の中に二つの町が背中合わせに存在していて、その境目の部分に「世里・会所」と呼ばれる共有スペースがありました。ゴミ処理場や小さな菜園、お手洗いや井戸など生活に必要なものが配置されていたそうです。

ちなみに城下町の”1ブロック”は平均して約100メートル四方。両端の道から20m部分までは町屋があったので、中央の世里・会所は、約10mのスペースだったということになりますね。

まだ蒸し暑さの残る夕方の町へ、いざ出発。

目にとまったのは別雷神社。江戸時代は、町人自治の役所があった辺りだとか。

ところで、江戸時代は「1ブロック分の長さ=1丁」だったので、七間町は3丁目までありましたが、現在は2丁目まで。呉服町も400年前は6丁目まであったそう。(現在は2丁目まで)町名が一緒であっても、細かな所で時代の流れを感じます。

ちなみに呉服町は6丁目までですが、その途中を札ノ辻町が”分断”している形になっています。石川さん曰く、札ノ辻町が高札場である”強い町”だからとのこと。なるほど、江戸時代の町には強い・弱いという概念もあったのですね。

そんな話をしながら歩いていると豪華な碑を発見!しかもいつもの見慣れた町名碑ではない!?この妄想まちあるきを始めてからというもの、”石碑”に反応するようになってしまったメンバ一同は大興奮!

東海道府中宿全体の碑でした。
そこに描かれていた絵からは、府中宿の東海道がとてつもなく幅の広い立派な通りだったことが伺えます。自由経済の都市を目指していたからこそ、ですね。どんなに活気に満ちあふれたメインストリートだったことでしょう。

石川「そういえば、駿府九十六ヶ町全体の石碑ってないの。」
一同「そうなんですね!」
石川「作りませんか・笑?」
一同爆笑。→(スポンサー募集してます!)

七間町(現存)

通りの幅が七間(13m)だった説と、専売品7品目の座があり七座が並んでいたことから七軒町→七間町となった説の、二つの説がある。

映画館街の老舗喫茶店や、おでん屋さんを通り過ぎ、北へ進みます。

石川「ここ、世里の跡っぽくないかしら?」
一同「たしかに!」

まちあるきも3回目を迎え、町のブロックを縦断する駐車場や空き地を見ると、世里ではないかと妄想するようになってきた我々。順調に妄想力がアップしています!

そして一同は、石川さんのご先祖様が同心(警察のような役)として担当していた梅屋町へ。梅屋町は、梅屋勘兵衛が経営していた「梅屋」という旅館があった町。その梅屋は、軍学者・由井正雪が自害した現場ということでも有名なのですが、町の中のどこにあったかは石川さんもご存じないとのこと。今は教会になっている所が、そうなのではないかと妄想してみましたが、果たして・・・(これについては、レポート後半でもう一度触れたいと思います!)

梅屋町(現存)

梅屋勘兵衛が住んでいた町。旅館が多かった。

角を曲がり新通の方へ入ると、そこは駿府九十六ヶ町の寺町一丁目。江戸時代から残る善然寺さんの赤門を見学し、進みます。寺町は西からの攻撃に対する防護壁として、その位置にあったという説があるそうです。

石川「駿府のまちは、西から入ることを前提として作られているの。」
メンバーA「たしかに駿府城の向きもそうなっていますよね!」

400年前、安倍川を越えて西から駿府に入った人々は、この新通を歩いて東へ向かったんですね。視線の先にはきっと、立派な駿府城の天守閣が見えたに違いありません。

と、ついにここで町名碑を発見!

新通二丁目

新通は七丁目まであり、その先に新通川越町があった。二丁目は別名新通大工町とも呼ばれていた。

通りを作ってみたポーズ

一同、再び東へ向かいます。そこにあったのは感應寺。家康公の側室だったお万の方が得度したという、縁のお寺です。通りに点在する赤提灯のお店を眺めながら、ビールを飲みたい気持ちを抑えつつ、人宿町方面へ。こうやって「今」のまちの姿を楽しみながら歩くのも、妄想まちあるきの醍醐味なのです。

“人宿町”の交差点を渡り、「世里・会所」の区画がそのままに残るポイントへ。400年前はなかった細い通りを中央まで歩けば、そこはブロックの中心。つまり、ここに会所があったということ!そしてそこから両側(昔からある通り)へ貫通するように在るパーキングは、まさに世里の跡!エキサイティング!

通りを挟んで向かい同士の家とは、同じ町で顔見知り。そして背中合わせの隣町の家とも、世里・会所というシェアスペースによって顔見知り。こんなしくみが、駿府の町の平和に繋がっていたのかもしれませんね。

そしてこの頃から「ビール飲みたい」という言葉を我慢できなくなる一同・・・。

人宿町(現存)

旅籠町。今川氏の時代には「今宿」と呼ばれ、栄えていた。

ついに本日2つ目にしてラストの町名碑に到着!一番最近建てられたということで、ピッカピカ!碑の所には、32戸292人が住んでいたとの表記。1軒に7~8人暮らしていたはずだけど、昔の人は背が低かったからそんなに圧迫感はなかったんじゃないかと妄想。(家康公も150cm程度だったんですよね)

上石町

米座(米穀商)の人々が居住していた町。

おにぎりポーズ

途中、スリランカカレーのお店でお友達のマンジュさんに会いました!

そして空には、美しい夕焼けが・・・!この夕暮れの景色は、きっと400年前から変わっていないんだろうなと妄想しながらゴールに向かう一同でした。

最後は念願の「常きわ」にてカンパイ。なんと、女将さんが「梅屋」があった場所を教えてくださるという、まさかの展開も!予想していた教会の場所ではありませんでしたが、大変貴重なお話を聞くことができました。こういう出会い、本当に嬉しいですね。次回は消えた町名をめぐる妄想まちあるき。どうぞお楽しみに!

参加メンバーの皆さんに感想をお聞きしました!

「新しい発見をしながら、懐かしいエリアを歩くことができて楽しかったです!」

「自分もこの辺りに住んでいるのでウロウロはしていましたが、未だに歩いたことがない通りがあることにビックリしました。梅屋町のキリスト教会のこと、幕臣の人たちが改宗をしたこと、何かありそうだぞという感じがするので、もう少し調べてみたいと思います。」

「西から新通を歩いてくると駿府城の天守閣が見えるということ、町が西に向けて作られているということが面白かった。城の東側に住んでいる人間としては少し寂しいですが・・・笑」

「共有部分でコミュニケーションをとれるなど、機能美に溢れる町だなと思いました!とても現代型だなと思いますし、誇れるポイントだなと感じました」

「歩くだけよりも、そこに歴史がプラスされることでさらに面白かった。とりあえず、ビールが飲みたいです!」


講師:石川たか子さん

生まれも育ちも駿府・静岡。株式会社丸伸代表取締役。静岡の魅力的な文化を再確認する「シズオカ文化クラブ」の代表幹事。静岡市文化振興財団評議員。静岡県立美術館協議会委員。静岡の歴史文化を継承する地域活動を多数実施している。趣味は相撲グッズの収集、相撲甚句、地域活動、国内温泉旅行など。

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