駿府九十六ヶ町 400年後の妄想まちあるき vol.7
駿府九十六ヶ町を愛する石川たか子さんと共に、町名の由来を学んだり400年前の情景を妄想しながら、その町のカフェでひと休み。そんなゆるめのお散歩「妄想まちあるき」を、シズオカオーケストラの井上がレポートします。
ナビゲーターは石川たか子さん。主旨に賛同して集まってくださった4名のメンバーと共に妄想まちあるきが始まる予定だったのですが・・・この日はあいにくの雨模様。急遽「妄想女子会」と称する座学からスタート。
まず石川さんが配布してくださったのは、今日歩く予定だったコースが描かれた「東海道分間延絵図」。手書きで詳細に表現されている江戸時代のまちなみを眺めながら、さっそく妄想トーク。道幅は誇張して描かれているものの、やはりメイン通りは広く、たくさんの馬や人が行き交う賑やかな雰囲気だったに違いありません。
今日のコースは直線で500m程度の旧東海道。街道を往来する荷物の重量を検査するための役所である貫目改所や、本陣・脇本陣が(上伝馬・下伝馬にそれぞれ2軒ずつ)あった東海道最大の宿場とも言われる「伝馬町通り」と、その周辺です。まずは場所は違えど現存する町名である、八幡町の話で盛り上がりました。
八幡(小路)町
八幡町は今も駅南に残る町名だが、当時その場所は「八幡村」といった。今回のコースに位置するエリアは、その八幡村に近いことから八幡小路町といわれたが、今は別の町名に変わっている。「やーた」と発音するのが親しみやすい。
ここで面白いエピソードが!ちょうど久能山東照宮へと続く「久能街道」の入り口に位置する八幡小路町。参勤交代の大名達は必ず東照宮にお参りしなくてはならないのですが、年数がたつとだんだんと横着(!)するようになってきて、八幡小路町の辺り(東照宮より全然手前)からお参りする大名が出てきたらしいのです。見張りのお目付役も登場し、ちゃんと参拝してない大名にはペナルティがあったとか!?
このように、伝馬町エリアと久能山には深いつながりがあるのですね。ちなみに現在伝馬町小学校が建っている敷地は、初代久能山東照宮神主となる榊原照久の屋敷だったそうです。お屋敷・・・広い・・・。さらに久能街道の入り口ともなれば、何か目印になる門構えか何かがあったに違いないと、座学ながら妄想は膨らみます。
次に話題になったのは、今は消えてしまった町名。(町名碑の写真と共にご覧ください!)
鋳物師町
今川時代から鋳物師衆(いもじしゅう)が住んでいたことに由来。
この鋳物師の方々、火を使う仕事のため、火事を起こして町に迷惑をかけるという理由で、早くに清水(江尻)へ移動させられたとか・・・なんだか理不尽のような気もしますが・・・。
台所町
駿府城の台所御門に通じる場所にあったことに由来。
つまりお城にいる数千人分もの食材が運ばれるルート。先ほどから登場している久能街道は、東照宮と繋ぐ道なだけでなく、海のものと山のものを流通させる南北の道としても活躍したのですね。久能の海で捕れた魚が、久能街道〜台所町を経て大量にお城に運ばれたのかも・・・と妄想してみます。
花陽院門前町
家康公のお祖母様の菩提寺・華陽院の門前町。
新貝町
小梳神社の神職・新貝右近さんのお屋敷があったことに由来。
ところで資料には、当時の居住民数が明記されているのですが、その中に「山伏*名」「座頭*名」という表記が・・・。そういった統計もしっかり取られていたし、おそらく暮らす人々の顔がはっきりしていて「〜屋の○○さん」と言えば通じるような距離感で、町が成り立っていたのだろうと思います。コンパクトでありながら、旅人も寛容に受け入れる平和な城下町だったことでしょう。
それでは最後に、雨が弱まったタイミングで少し歩いてみた様子を、写真とともに振り返ってみたいと思います。伝馬町通り沿いには、とにかくたくさんの石碑があるんです。しかもそれぞれが凝ったデザインと豊富な説明文で、見応え抜群!
途中、通り沿いにある老舗艾屋さん「小山忠次郎商店」さんに寄り道。突然の訪問にも関わらず、丁寧な説明と共に、艾の水飴からお茶まで出してくださったご主人。ありがとうございます。
座学で終わるかと思いきや結局てくてく歩き、初の艾体験まですることができた、見所満載の伝馬町でした!
講師:石川たか子さん
生まれも育ちも駿府・静岡。株式会社丸伸代表取締役。静岡の魅力的な文化を再確認する「シズオカ文化クラブ」の代表幹事。静岡市文化振興財団評議員。静岡県立美術館協議会委員。静岡の歴史文化を継承する地域活動を多数実施している。趣味は相撲グッズの収集、相撲甚句、地域活動、国内温泉旅行など。